Justsystemがキーエンスの傘下に入りました。
前回述べたように、Justsystemには親指シフトの世界でどんどん活躍してほしいと思っていましたから、ハードのメーカーとつながりができたことはある意味慶事でもあります。勝間氏はパナソニックのJISキーボードのノートをやりくりして親指シフトノートとして使っているそうです。ここは思いきって、(別にキーエンスが製造に関与してもしなくてもいいので)、勝間氏の酷使に耐えるタフな親指ノートをJustsystemにはコーディネートしてほしいところです。勝間ブームはたいへんなものですから、きっと商売になります。少なくとも、本格的な親指ノートができたら、勝間氏の生産性はますます上がるでしょうから、それだけでも日本の知的環境にとって、大いに貢献できることになります。最低でも勝間氏と私は買いますから2台は売れます(^^;)。浮川さんには、再度伏してお願い申し上げます。
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2009/04/12(日) | パソコン類 |
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みなさま、前回はいろいろと情報を寄せて下さってありがとうございました。
親指シフトキーボードが汎用的に使えていないのは、日本語変換ソフトの側の問題も大いにあったのですね~。そして、親指シフトだと、他の方式よりも「細かな文節区切り」をしやすいなどの特性があって、ローマ字入力と同一の作法で変換させるよりも、もっとこまやかな「工夫」の余地もあることが分かりました。
で、思ったのが、せっかく一太郎でがんばっているJustsystemが、親指シフトにもっと力を入れたらいいのに、ということです。
勝間さんの例を引くまでもなく、親指シフトは、「考えて打つ」人にとって、おそらく最善の入力方式だと思うのです。私の場合、ローマ字入力で入門して、ローマ字で爆速入力できるまでになり、その上を目指して親指に転向いたしました。決して、食わず嫌いでローマ字を好まないのではなく、ローマ字入力は熟知し、ある程度「極めた」上で比較して、親指シフト入力がはるかに優れていると実感しているのです。
世界中、ワープロといえばほぼマイクロソフトのWordに席巻されてしまったなかで、ローカルなソフトとしてかなり健闘している一太郎なのですから、より日本語入力にフレンドリーな親指シフトとの親和性を高めて、同時に同社のサイトで親指シフトのキーボードを販売するなどの活動を行なってもよいのではないでしょうか。
浮川さんがはたしてこのブログを見ているかというと、いささか心許ないですが、ぜひご検討いただければと、伏してお願い申し上げます。
2009/03/10(火) | パソコン類 |
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去年は勝間和代が大ブレイクした1年だった。
1年の間に、あれだけの本を次々と書く、それだけでもたいへんな能力だと思うが、彼女の知的生産を支えたのは、間違いなく「親指シフト」入力だ。
親指シフトというのは、パソコンにおける入力方式のひとつで、むかし富士通の「オアシス」というワープロに、その「親指シフト」入力用のキーボードがついていた。
たいていの人はローマ字入力を使っていると思うが、それだと、ひとつの字を出すのに2から3打しないとならない。JISカナはワンストロークで1文字ではあるものの、キーボード全面に50字が散らばっているために、ほとんどの人は習熟できないでいる。
その点、親指シフトは、日本語入力を徹底的に考えて作られていて、わずか3段のキーのなかで、非常に効率的に日本語を打ち込むことができる。ワープロの入力コンクールがあった頃には、優勝者はほとんど全員この親指シフトを使っていたものだ。
勝間氏はこの親指シフトの愛好者。彼女の生産性を支えているのは間違いなく、この親指シフト入力だと断言できる。
単に入力が速いというだけでなく、とてもリズミカルに、思考を妨げずに打てるのが、親指シフトのよいところ。思考を「妨げない」以上だ。習熟した親指シフターは、紙にペンで書くよりももっと思考のアウトプットが速いはずだ。思考を促進する効果さえ感じられる。脳とパソコンが直結したような感覚、これは親指シフト入力ならではのものといえる。
しかし残念なことに、本家本元の富士通を含め、いまや親指シフトキーボードの付いたパソコンはほとんど死滅してしまった。リュウドという会社がかつて、ウインドウズで使える親指シフトキーボードを出していたが、いまはやめてしまっているし、ドライバの開発も止まっているから、ビスタ以降では使えない。せっかく秀逸なキーボードなのに。
本家の富士通は辛うじてキーボードを供給しているようだが、なぜかATOKやウインドウズ標準のIMEでは使えず、オアシス準拠の特殊な日本語変換フソトを要求してくる。1機種しかないノートパソコンも同様だ。
いまや、パソコン業界では、親指シフトは過去の遺物という扱いであるが、知的生産の道具としては、うち捨てるにはあまりにもったいない、非常に効率的なアイテムなのである。日本で売るパソコンは、デスクトップもノーパソも、親指シフトを標準にしたらよいとさえ思うくらいである。
いまは勝間氏も、ウインドウズの標準的なキーボードをアクロバット的に用いて親指シフト入力をやりくりしているのが現状だ。彼女あたりが音頭を取って、親指シフトキーボードの大・普及キャンペーンを行なってくれるとよいと、私は願っている。
今日では、富士通1社を離れて、親指シフトキーボードのコンソーシアムが普及を管理しているので、NECでもソニーでも、親指シフトのパソコンを作ることができる。これだけ「差別化」に汲々としている産業界で、親指シフトに目を付ける会社がいないのは、ほんとうにもったいないことだと思う。
追記:トラックバックをいただきました。ありがとうございます。
今や、日本語以外にも親指シフトの応用が広がっているようで、「日本のパソコン」だけでなく、国際的な標準規格として親指シフトが登りつめてもよいほどであることは、はじめて知りました。ありがとうございます。
2009/02/19(木) | パソコン類 |
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前回まで、「賢い消費者」としての大学選び、ということで書いてきた。
もしかすると、がっくり来た人もいるかもしれないので、ここで大切なことを書いておく。
大前研一が「偏差値教育の弊害」について、「若者が“身の丈”の夢しか見なくなったことだ」と書いていた。分かる気がする。
本稿の大学選びその2で、いわゆる「いい大学」でなくては行ってもしょうがない、というある意味“あけすけな”話を書いたわけだが、いわゆる「いい大学」を出なければ幸せになれない、と書きたかったわけではない。話を「お金の面での成功」だけに限ったとしても、いわゆる「いい大学」を出ている必要なんか全然ない。
鉄鋼王カーネギー(カーネギー・ホールを造ったことで有名。今で言うと“ビル・ゲイツ”ばりの成功者だと思ってよい)が、自分のお墓に、こう刻ませたという。
自分よりも優秀な人々を周りに集めることに長けた者、ここに眠る
そうなのだ、ひとりのひとが自分の力だけでできることなんてたかが知れている。大切なのは、あなたのために一肌脱ごうという人間をどれだけ集められるかなのだ。
それはおそらくカネの力ではない。「金の切れ目が縁の切れ目」みたいな人は、しょせん味方ではあり得ない。
またそれは、生まれついた美貌、男であれば「ハンサム」であることでもない。美しさは経年変化とともに、残酷なまでに減摩する。むしろ、減摩する付加価値に頼って生きてきた人は、それが失われた時どうしてよいか分からないに違いない。美しく生まれついた人をうらやむ理由はない。
では、自分よりも優秀な人が喜んであなたのために集まってきて「一肌脱いでくれる」のは、どんな力によるのだろうか。
それは人柄、人間的な魅力、それに尽きる。
だから大切なのは、自分の人間的な魅力を磨くことなのだ。
もちろん一朝一夕にそれを築くことはできないだろう。
だからこそ貴重なのだし、トライしがいがあるというものだ。
もちろん人間的な魅力にもさまざまなバリエーションがある。知性とか徳性、カリスマ性や謙虚さなど、あらゆるファクターが魅力となりうる。自分のキャラクターに合った長所を伸ばすことだ。カリスマ性とは異なる個性の人がそれを追求したら、へたをするとただの空威張り、ドンキホーテになってしまうかもしれないし、知性に秀でた人がやたらと謙遜したらそれは嫌味というものだ。押し出しの弱い人も、ほんとうに実力があれば、周りの人が自然に前へと「押し出して」くれるだろう。
たぶん、短所を克服するというよりも、自分の長所を見つけてそれを伸ばすことに注力したらよい。
良いところにエネルギーが出ていけば、短所に回るエネルギーは自ずと減っていくものだから。
具体的なことをひとつだけ挙げるとすれば、「他の人の役に立つこと」を考えて暮らす、ということかもしれない。自分の利益と関係ないことに関して誠実に一生懸命になれる人は、きっと魅力的だと思う。それは他人に利用されやすい人、というのとは違う。他人に取り入るような気持ちとか不全感の裏返しとしてではなくて、ほんとうに利他的な気持ちで生きていると、他人を利用するようなタイプの人は気味悪がってあまり寄ってこなくなる。
残念なことに、「世のため人のため」みたいなことを、売名行為とか、ええかっこしいとか、そんなふうに取る風潮もまだある。「多額の寄付」なんていう「大それた事」でなくても、老人に席を譲るとか、ゴミを拾うといったことでさえそうだ。でもそういう社会に住んでいるのだから仕方がない。社会との摩擦をなるべく生じさせないように、目立たずに人に親切にするには創意工夫が求められるが、それはそれで頭の体操、チャレンジしがいのある課題だと言うことができるだろう。
「賢明な大学選びの結論が親切の勧めかい!」と、がっくりする向きもあるかもしれない。
でもきっと、すでに成功している人は、「そうそう、そうなんだよねー」と、うなずいているに違いないと思う。「だまされたと思って」、せめてこれから半年ばかりでも、「ひそかに親切にする創意工夫に日々喜びを見いだす」人生を送ってみることをおすすめする。むろん、これから大学受験をする人以外にも。きっと、「人生がこんなに変わるんかい!」と、驚くことだろう。
お試しあれ。
2009/02/16(月) | 大学・進学 |
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「大学選び その1」で、いまや本当に優秀であれば、大学に行く必要はない、という話を書いた。
基本的にはその通りなのだが、当然、行く意味のある・あるいは行く必要のある分野もあることはもちろんだ。
たとえば、研究室・実験室の使用が必須である分野、たとえば理系の一部などでは、大学に行く意味はもちろんある。
大切なのは、ただやみくもに「絶対大学にいかないと!」と思い込まないことが大事だ、ということなのだ。
さて、そんな分野も含めて、「行く意味のある大学」を選び出す方法について、さらに見ていくことにしよう。
既述のとおり、必要な情報が容易に入手できる時代になったいま、わざわざ大学に行く意味がどこにあるかというと、それはある種“寺子屋”的な、マンツーマンの接触のある学習環境があるならば、ということができるだろう。
これは、ひとつには教員との接触であるし、もうひとつは、学生同士の接触機会だ。
前者を担保するのは、何にも増して教員の量だ。
大学の定員と、専任教員の数は、大学のホームページなどをみれば容易に知ることができる。
となれば、自分が行きたいと思う大学数校と、自分が行けないかもしれないけど憧れる大学数校の、「専任教員ひとりあたりの学生の数」を計算してみればよい。すると、おどろくほど、この数字に開きがあることがわかるだろう。
教員の数が足らないと、いきおい講義は「マスプロ」になる。著名な大学でも、1000人単位の巨大な講義があるのだ。オペラグラスでも持っていかないと、一学期講義に通い詰めても先生の顔すら覚えられないということになる。そんなんであれば、ホントに冗談抜きで、インターネットの講義を聴いている方がいい。少なくともインターネットであれば、誰が聴くか分からない(自分の分野の専門家や師匠だって聴くかもしれないのだ!)という緊張感から、そうそういい加減な講義はしないだろう。一方、1000人の講義なんて、そこに出でいる学生だって大半は聴いちゃいない。教えるセンセイだって少なからず弛緩しがちなはずだ。だから、教員の数の足りない大学なら、たとえいまは有名大学であっても、ろくな教育は受けられないだろうし、早晩評判を落とすだろうという予測も付く。なかにはゼミに全員入れるわけではない、なんていう大学・学部も一部にはあるから(大学で学ぶ意義の半分以上はゼミのような少人数のインテンシブな訓練にあると言ってよいのだから、ゼミ抜きの大学生活など考えられない)、よーく調べておくことだ。
あとは、学生同士の接触だが、これは学生に定常的な居場所があるかどうか、という要因にかなり左右される。物理的に定まった「教室」なり「研究室」があって、そこにいつも仲間がいる、そんな環境が望ましいのだが、現実には、少なからぬ大学で、学生は講義を受ける教室に移動して歩くだけで「いつもの居場所」はないのである。同じ大学でも、学部や専攻によって、居場所のあるなしが異なる場合もある。これは自分の行きたい大学の行きたい学部・専攻について、実際に確かめておくことができれば最善である。(逆に言うと、そこまで「取材」するだけの機動性があなたにあれば、どこの大学に進もうとも、あるいは大学に行かなくても、これからの人生を自ら切り開いていくことができると、私は太鼓判を押しておこう)。
そこまでするゆとりと勇気がないのであれば、次善の策としては、教室の総面積を学生の数で割るか、校舎の総床面積(それすら分からなければ敷地面積)を「学生と院生と聴講生と専任教員と非常勤と事務職員その他の総数」で割った数で比較してみるとよい。数校を比較するのであれば、条件を揃えること。「学生ひとりあたりの教室面積」と、「大学内総人口で敷地面積を割ったもの」を比較するようなことには意味がないことに注意しよう。
2009/02/10(火) | 大学・進学 |
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