前回まで、「賢い消費者」としての大学選び、ということで書いてきた。
もしかすると、がっくり来た人もいるかもしれないので、ここで大切なことを書いておく。
大前研一が「偏差値教育の弊害」について、「若者が“身の丈”の夢しか見なくなったことだ」と書いていた。分かる気がする。
本稿の大学選びその2で、いわゆる「いい大学」でなくては行ってもしょうがない、というある意味“あけすけな”話を書いたわけだが、いわゆる「いい大学」を出なければ幸せになれない、と書きたかったわけではない。話を「お金の面での成功」だけに限ったとしても、いわゆる「いい大学」を出ている必要なんか全然ない。
鉄鋼王カーネギー(カーネギー・ホールを造ったことで有名。今で言うと“ビル・ゲイツ”ばりの成功者だと思ってよい)が、自分のお墓に、こう刻ませたという。
自分よりも優秀な人々を周りに集めることに長けた者、ここに眠る
そうなのだ、ひとりのひとが自分の力だけでできることなんてたかが知れている。大切なのは、あなたのために一肌脱ごうという人間をどれだけ集められるかなのだ。
それはおそらくカネの力ではない。「金の切れ目が縁の切れ目」みたいな人は、しょせん味方ではあり得ない。
またそれは、生まれついた美貌、男であれば「ハンサム」であることでもない。美しさは経年変化とともに、残酷なまでに減摩する。むしろ、減摩する付加価値に頼って生きてきた人は、それが失われた時どうしてよいか分からないに違いない。美しく生まれついた人をうらやむ理由はない。
では、自分よりも優秀な人が喜んであなたのために集まってきて「一肌脱いでくれる」のは、どんな力によるのだろうか。
それは人柄、人間的な魅力、それに尽きる。
だから大切なのは、自分の人間的な魅力を磨くことなのだ。
もちろん一朝一夕にそれを築くことはできないだろう。
だからこそ貴重なのだし、トライしがいがあるというものだ。
もちろん人間的な魅力にもさまざまなバリエーションがある。知性とか徳性、カリスマ性や謙虚さなど、あらゆるファクターが魅力となりうる。自分のキャラクターに合った長所を伸ばすことだ。カリスマ性とは異なる個性の人がそれを追求したら、へたをするとただの空威張り、ドンキホーテになってしまうかもしれないし、知性に秀でた人がやたらと謙遜したらそれは嫌味というものだ。押し出しの弱い人も、ほんとうに実力があれば、周りの人が自然に前へと「押し出して」くれるだろう。
たぶん、短所を克服するというよりも、自分の長所を見つけてそれを伸ばすことに注力したらよい。
良いところにエネルギーが出ていけば、短所に回るエネルギーは自ずと減っていくものだから。
具体的なことをひとつだけ挙げるとすれば、「他の人の役に立つこと」を考えて暮らす、ということかもしれない。自分の利益と関係ないことに関して誠実に一生懸命になれる人は、きっと魅力的だと思う。それは他人に利用されやすい人、というのとは違う。他人に取り入るような気持ちとか不全感の裏返しとしてではなくて、ほんとうに利他的な気持ちで生きていると、他人を利用するようなタイプの人は気味悪がってあまり寄ってこなくなる。
残念なことに、「世のため人のため」みたいなことを、売名行為とか、ええかっこしいとか、そんなふうに取る風潮もまだある。「多額の寄付」なんていう「大それた事」でなくても、老人に席を譲るとか、ゴミを拾うといったことでさえそうだ。でもそういう社会に住んでいるのだから仕方がない。社会との摩擦をなるべく生じさせないように、目立たずに人に親切にするには創意工夫が求められるが、それはそれで頭の体操、チャレンジしがいのある課題だと言うことができるだろう。
「賢明な大学選びの結論が親切の勧めかい!」と、がっくりする向きもあるかもしれない。
でもきっと、すでに成功している人は、「そうそう、そうなんだよねー」と、うなずいているに違いないと思う。「だまされたと思って」、せめてこれから半年ばかりでも、「ひそかに親切にする創意工夫に日々喜びを見いだす」人生を送ってみることをおすすめする。むろん、これから大学受験をする人以外にも。きっと、「人生がこんなに変わるんかい!」と、驚くことだろう。
お試しあれ。
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2009/02/16(月) | 大学・進学 |
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「大学選び その1」で、いまや本当に優秀であれば、大学に行く必要はない、という話を書いた。
基本的にはその通りなのだが、当然、行く意味のある・あるいは行く必要のある分野もあることはもちろんだ。
たとえば、研究室・実験室の使用が必須である分野、たとえば理系の一部などでは、大学に行く意味はもちろんある。
大切なのは、ただやみくもに「絶対大学にいかないと!」と思い込まないことが大事だ、ということなのだ。
さて、そんな分野も含めて、「行く意味のある大学」を選び出す方法について、さらに見ていくことにしよう。
既述のとおり、必要な情報が容易に入手できる時代になったいま、わざわざ大学に行く意味がどこにあるかというと、それはある種“寺子屋”的な、マンツーマンの接触のある学習環境があるならば、ということができるだろう。
これは、ひとつには教員との接触であるし、もうひとつは、学生同士の接触機会だ。
前者を担保するのは、何にも増して教員の量だ。
大学の定員と、専任教員の数は、大学のホームページなどをみれば容易に知ることができる。
となれば、自分が行きたいと思う大学数校と、自分が行けないかもしれないけど憧れる大学数校の、「専任教員ひとりあたりの学生の数」を計算してみればよい。すると、おどろくほど、この数字に開きがあることがわかるだろう。
教員の数が足らないと、いきおい講義は「マスプロ」になる。著名な大学でも、1000人単位の巨大な講義があるのだ。オペラグラスでも持っていかないと、一学期講義に通い詰めても先生の顔すら覚えられないということになる。そんなんであれば、ホントに冗談抜きで、インターネットの講義を聴いている方がいい。少なくともインターネットであれば、誰が聴くか分からない(自分の分野の専門家や師匠だって聴くかもしれないのだ!)という緊張感から、そうそういい加減な講義はしないだろう。一方、1000人の講義なんて、そこに出でいる学生だって大半は聴いちゃいない。教えるセンセイだって少なからず弛緩しがちなはずだ。だから、教員の数の足りない大学なら、たとえいまは有名大学であっても、ろくな教育は受けられないだろうし、早晩評判を落とすだろうという予測も付く。なかにはゼミに全員入れるわけではない、なんていう大学・学部も一部にはあるから(大学で学ぶ意義の半分以上はゼミのような少人数のインテンシブな訓練にあると言ってよいのだから、ゼミ抜きの大学生活など考えられない)、よーく調べておくことだ。
あとは、学生同士の接触だが、これは学生に定常的な居場所があるかどうか、という要因にかなり左右される。物理的に定まった「教室」なり「研究室」があって、そこにいつも仲間がいる、そんな環境が望ましいのだが、現実には、少なからぬ大学で、学生は講義を受ける教室に移動して歩くだけで「いつもの居場所」はないのである。同じ大学でも、学部や専攻によって、居場所のあるなしが異なる場合もある。これは自分の行きたい大学の行きたい学部・専攻について、実際に確かめておくことができれば最善である。(逆に言うと、そこまで「取材」するだけの機動性があなたにあれば、どこの大学に進もうとも、あるいは大学に行かなくても、これからの人生を自ら切り開いていくことができると、私は太鼓判を押しておこう)。
そこまでするゆとりと勇気がないのであれば、次善の策としては、教室の総面積を学生の数で割るか、校舎の総床面積(それすら分からなければ敷地面積)を「学生と院生と聴講生と専任教員と非常勤と事務職員その他の総数」で割った数で比較してみるとよい。数校を比較するのであれば、条件を揃えること。「学生ひとりあたりの教室面積」と、「大学内総人口で敷地面積を割ったもの」を比較するようなことには意味がないことに注意しよう。
2009/02/10(火) | 大学・進学 |
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多くの場合、いわゆる「いい会社」に入るために「いい大学」に入ろうとするわけだが、そのような目的のために、どう「いい大学」を選ぶか、ということになってくる。
念のために言うが、私は、ちまたでいうところの「いい会社」に入るのが必ずしも良い選択とは思えない。トヨタやソニーに入って同期ウン百人と競争するよりも、「将来ソニーやトヨタみたいになる会社」に入って社長に登りつめる方が「おいしい」のは目に見えているし、第一、ソニーやトヨタのような大企業が「安泰」ではないことは、もはや誰の目にもあきらかからだだ。とはいえ、そこらへんの話になると、本欄にはいささか手に余る壮大なテーマとなってしまうので、とりあえずここでは、いわゆる「いい会社」に入るという目的を肯定した上で、そのためにどう「お買い得」な大学選びをするか、ということに話を限定しようと思う。
お買い得、ということは、言い換えれば「安くていいものが買える」ということである。
受験生にとって「支払う」ものは自分の成績、と考えれば、難易度がより低くて就職により有利な大学を選ぶ、と言い換えることもできるだろう。
黙っていても東大・京大クラスの大学に入れる人の場合、すなおに東大にでも入っておけばそれでよい。問題は、そこまでいかないレベルの場合である。
多くの「いい会社」が東京に本社を置いているため、いい会社に「近づく」ためには、東京の大学に行けばよいと、考えるのはある意味自然なことだ。だが、ほんとうにそれでいいのか。具体的に言えば、東京で中堅どころの大学に入るのと、地方のトップクラスに入るのとでは、やはり東京へ出た方がいいのか。
そのほうがいいと考える人がいるからこそ、現在の偏差値水準が成立しているのではあるが、こと「いい会社」へ入る、という「目的」を前提で考えるなら、それは必ずしも賢い戦略ではない。
大企業の場合、全国から「バランス良く」新卒を採用しようとするため、地方の大学に籍を置いていることがそのまま不利になるわけではない。いやむしろ、「同レベル」であれば、地方に分のある場合もあるのだ。
たとえば、いわゆる「いい大学」の下限といっては失礼だが、旧帝大で1番難易度が低い北大のことを考えてみよう。北大と、同レベルの東京の私大あるいは国公立だとどちらが有利か。
これは言を待たず北大である。
北海道地区から人を取ろうとしたとき、競合する大学は、せいぜい小樽商科大学(と、しいて加えれば数校の工業大学系のところ)くらいになるだろう。学内で競合しない限り、そして本人の実力に相当の問題がないかぎり、ほとんどどこでも、希望した会社に入れる、と言ってもよいくらいである。
しかし、同レベルの東京の大学の場合、自分のところと同等以上のところに、いったい何校ひしめいているだろうか。ちょっと考えただけでも、これはかなりタフな闘いになるのは目に見えている。
実際、入試偏差値でははるか上のレベルの大学を制して、次々と北大生が内定を決めていくのを、「なぜだ?!」と叫びながら横で見ている在京大学生は少なくないようだが、ちょっと考えればこんなことはすぐにわかること。逆にいえば、そこまで頭が回らなかった「罰」を、いま受けているのだと言うこともできるだろう。
念のために言うが、わたしは在京の諸大学を貶めるためにこんなことを書いているのではない。それぞれの大学の持つ、輝かしい歴史や伝統、あるいは教育内容について、いささかもその価値を否定するものではない。しかし、こと「いい会社に入る」という「目的」を前提として「賢い買い物をする」という視点に立つならば、このようなことが言える、と、言っているだけである。さらに、すでに述べたように、いわゆる「いい会社」にはいるという目標の立て方自体にも、決して賛成しているわけではない。(たぶん、これからの人生行路でいちばん「有利」な選択は農家になることだろうと私は思っているのだが、そのことは欄を改めて書くことにしたいと思う)。しかし、多くの人は、「いい会社」に入るためと称して厳しい受験戦争を幼い時から闘ってきているのに、肝心の大学選びで考え方を間違えるのはもったいないと思うわけである。
ちなみに・・・・・。
さきほど話に出た小樽商科大学である。
一般にはあまり有名とも言えないし(しかし無名とまでは言えない微妙な立ち位置にある)、入試偏差値もいわゆる旧帝大クラスよりはずっと低いわけだが、こと「いい会社」に入る、という目的からすると、かなり「おいしい」大学のひとつである。
小樽商大は、その出自についていえば、一橋大や神戸大とともに旧制の高等商科専門学校である。旧帝大を御三家とすれば、いわば「御三郷」にあたる由緒正しき家柄なのだ。
戦後、総合大学への道を歩んだ一橋や神戸と違って、単科大学として歩んできた地味さもあってあまり注目されないが、その格式の高さから、「いい会社」の「エライ人」には、ここを出た人も少なくない。そのような引きもあって、就職状況は悪くない。悪くないというか、入試偏差値を考えたら奇跡のようなものである。旧帝大クラスには届かないが、このレベルなら入れる、という人の場合、真剣に考慮するに値する大学といえるだろう。
あと、ちなみに老婆心ながら。
女子の場合、東京に出る別のリスクは、いざ就職になると「採用は自宅生のみ」なんて言いだす会社がまだある、ということだ。多くの女子学生は「そんなこと今さら言われても」となるわけだが、それを言うなら、入学前にそのくらいのことは調べておかないと、ということにもなる。4、5年後にも、そんなことを言う会社があるかどうかは分からないが、保守的な会社だと、明言していなくてもそんな観点で採用選考をされるという可能性は頭に置いておいた方がいいだろう。そしてあなたが考える「いい会社」は、きっとえてして保守的だろうと思う。
こんなことを書くと、「ずるーい、東京の奴らだけ有利ぃ」なんて思うかもしれないが、冒頭から書いているように、必ずしも東京の大学にいくほうが有利というわけではないのだから、いちがいにどっちが有利なのかはわからない。たぶん1番おいしい思いをするのは、札幌や小樽に住んでいる女子学生だろう。
2009/02/09(月) | 大学・進学 |
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本欄は、いわば“賢い消費者”のための情報コーナーだ。
いまは大学受験もたけなわである。そこで、ちょっと毛色を変えて、(今年の受験生にはちょっとばかり遅いが)、「賢い消費者として大学選び」を、今日から数回、考えていくことにしよう。
費用対効果を考える
賢い買い物かどうかは、まず第一に、払う代金に見合う価値があるか、という観点から考えられる。
そのような観点でいうと、はっきり言ってほとんどの大学には“経済的な価値”はない。たとえ医学部だとしても「原価割れ」である。
つまり、ほとんどの大学の場合、入るために払った金額と出るために払う金額を回収できるほど労働単価あたりの給料が高い仕事には就けない、ということである。
大学を出るかどうかで初任給が倍も違う国もある。しかし日本は、高卒で入って4年経った人と、そんなに大差ない給料しかもらえないのだ。医者はどうかといえば、入るにも通うにも大変な金額がかかる上に、労働強度は大変にキツイものとなる。しかもほとんどの勤務医の給料は働きに見合うほど高くない。開業するには多額の資金が要る上に、経営を成り立たせるのも一苦労。医学とは違った才能が必要になってくる。
ではなにかしらの「いいこと」もないのか。おそらく、4年に一度の国勢調査とか何かのアンケートの時、「大卒」というところにマルを付けるときにちょっと自己満足する、その程度の意味しかないと思ったほうがいい。
こんな話をするのも、大学を目指している多くの人は、「大学に行かなきゃならない」と思い込んでいるからだ。その上で、かなりの人が「行く意味が分からない」と嘆いている。
でもホントは、どこかに理由があると信じており、誰かが説得してくれるのを待っている。
はっきり言おう。理由はありません。あなたは行かなくていいんです。
そう言われて不満だとすれば、実はあなたは「いやいや」行こうとしているのではなくて、ホントはとっても大学に行きたいのだ。理由もなく、行きたいのだ。だとすれば、勉強する理由が分からないなんて言わないで、がんばることにしてはどうだろう。これから、大学に行く合理性がない場合について述べるが、合理性がないから行ってはいけない訳ではない。登山のようなものだ。好きだから登る。経済的な合理性なんてない。同じように、理由もなく大学に行きたい。それでもいいのだ。だが、それを自覚しておいたほうがいい。もし、「トクになるから行くのだ」と思い込んでいるのなら、ここから述べることを読んだ上で、ほんとに自分の場合トクになるか考えて、それで行く意味があると思ったら、行ったらいいのである。
いきなり夢のないことを書いてしまったが、もちろんすべての人にとって大学が不経済だとは言わない。ある特定の人々が、ある条件をクリアした大学選びをするなら、経済的にも合理性は出てくる。
とても優秀な人の場合
とても優秀な人は、大学に行く必要は、ない。
それは、いまや、大学に行かなくてもいくらでも勉強ができるからだ。
ほんの少し前まで、ちょっとした文献や学術論文をよむためだけでも、大学の図書館に入れる学生証には価値があった。しかし今や、最新の論文はどれもインターネットで読める。それどころか、MITのような超一流大学が、すべての講義をインターネットで公開している時代なのだ。本気で勉強したくて、なおかつホントに優秀なら、大学に行く必要はない、と言い切ってしまおう。
優秀でない場合
逆に、はっきり言ってそんなに優秀ではない場合はどうか。
つまり、ソコソコ以下の大学しか行けない場合だ。
そのレベルの大学に行ったからといって、就職に有利、ということはまずない。
就職がなくて専門学校に入り直す人さえいるのだ。就職を考えるなら、はじめから、きちんとスキルが身に付く専門学校に行った方がいい。
ソコソコ優秀な場合
お世辞抜きで「いい大学に入りましたね~」と言われるレベルの大学に入れる実力がある場合はどうか。すでに書いたように、ホントにホントに優秀なら、自分で勉強したほうが費用対効果は高い。それができなくて、しかし「いい大学」に入れる学力がある層だけが、辛うじて「大学に行く価値のある」人々ということができる。
その場合でも、大学選びを間違うと、たいへんなことになりかねない。早ければ入学直後、遅くても就職活動を行なうときには、自分が大学選びを間違ったという事実に直面させられることになる。
そこで次回は、その、行く意味のある層の人が、どう大学を選ぶか、という話に進むことにしよう。
2009/02/06(金) | 大学・進学 |
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